“○○のおっちゃん”

今はどこでどういう家族とどんな生活をしてるのか分からないが、自分の親父が今日で52歳になったはずである。
11月20日生まれと、偶然にも自分より誕生日がわずか一週間早いだけであり、子供の頃はよく「親父と息子の誕生日パーティ」という名目で、一緒くたにされて祝われていた。

時には親父の同僚で、自分にも良くしてもらっていた、通称“○○(苗字)のおっちゃん”(今では完全におっちゃんの年齢だが、自分が子供の頃にそう呼んでいた頃の“おっちゃん”はまだ20代)を呼んで、季節柄、鍋パーティーをしたりもしていた。その“おっちゃん”に止まらず、子供の頃は親父の他の同僚の人にも、“○○のおっちゃん”と呼び分け、子供なので当然ながら壁も作らずフランクに話していた。

その流れは未だにあり、今現在もひょんな事で“○○のおっちゃん”に顔を合わせる時も、自分は子供の頃と同じ立場で話をし、向こうも当時と同じ目線(とはいえ、最低限成人としての底上げはした扱いの上で)で話をしてくる。そのため、両人が意図せずとも、結果的に非常に有意義な話に結びつく事が多い。

立場的には同じ社会人であり、大人同士の関係になったのは確かだが、だからと言って“○○のおっちゃん”だったのが“○○さん”と変に改まるのも、妙な感じがする。いくら自分が年齢を重ねても、いくら相手が偉くなっても、対面して話をする場では「子供の頃から知ってる○○のガキ」と「子供の頃から知ってる○○のおっちゃん」の関係として、ある意味対等な関係で話ができる貴重な存在である事に変わりは無い。こういう存在は、親の次に大事にしなければならない。