自分にとっての「地震」

朝5時に中国地方で震度5弱の地震。自分の地域は震度2だったが、やはり起きた。
震災から11年経ってもこれだけ反応するという事は、一生こんな反応するんだろうなと思う。
自分にとってはいつまでも、「地震」=「阪神・淡路大震災」であり続けるのかもしれない。
震災前年(1994年)に中学校へ入学し、一人でもおおよその分別もつくようになった時期でもあり、
同じ年に両親が離婚しているという環境。これが余計にあの地震を強く印象に残しているのかもしれない。

震度2程度の地震でその場は終わっても安心できない。それが大地震の予兆である場合もある。
震災の前日(1995年1月16日)の夜7時ごろにも、震度3程度の地震があったのをはっきり覚えている。
それまでの神戸は「地震」という事自体が珍事として取られるほど地震がめったに起こった事が無く、
その前日の地震も、有感地震としてはもしかしたら個人的に初体験の地震だったのかもしれない程。

母も離婚直後でまだ仕事が見つからず、外見上でもハッキリ分かる程にガリガリに痩せていた。
そんな姿を見てる事もあり、母に対して反抗期特有の「ウザい」という感覚を一切覚える事は無かった。
自然と、親子ではなく友達の様にお互いにバカ言ったりして笑い合って毎日を過ごすようになった。
母の置かれた状況下からまず「ウザい」という目で見れないし、見ては母に対してあんまりだと思った。
女手一人で思春期に突入する息子を育てるだけでも大変なのに、そこに震災の大混乱が加わって、
ろくに仕事も見つからないような状況下である。母は現在もその当時に始めた仕事を続けているが、
あんな状況下でよく自分を不自由なく育ててくれたなと、今となっては本当に感謝している。

まだ母は47歳だが、そろそろ自分が頑張らなければならない。