“アホ”と“バカ”

今月の19日、とある大学内にて試験を受ける事になった。
「これ受からなかったら社会に殺される!! 人生終わる!!」というほど危機感のある試験ではなく、自分のスキルアップの為に受ける試験なので、結果は後から付いてくればいいかという感じ。それよりも、久々に学び舎に入れるという事の方が、ちょっと嬉しかったりする。

もちろん、母校ならいくらでも出入りできるのだが、大学時代はバイトと遊び(とパワプロ)に全てを傾けていたので、学校での思い出というと、卒業危機を回避する為にしょうがなく行った(でも、内容は非常に充実していて、今でも強く記憶に残っている)、アメリカへの研修旅行ぐらいで、他はどうでもいいような思い出しか残っていない。

自分の大学時代を短くまとめると、大多数がやる一般的な“バカ”を、「バカかこいつら!」と憤りを感じて避けつつ、個人レベルで独自の“アホ”をやっていたような感じ。逆に大多数からすれば、「何やねんコイツ!?」と感じただろうが、だからって、みんなが普通にやるような事を自分も普通にやるのって、我を忘れてバカ騒ぎ出来るほどおもろいか? という持論があった為、直感で興味が無い事についてはまるで関わらなかった。

“アホ”ではなく“バカ”。何がそんなに違うのかと思う人もいるかもしれないが、全然違う。

“アホ” → 愚かなさま。

“バカ” → 知能が劣り、愚かなさま。

(※ 関東だと、この意味合いが逆転しているのかもしれない。)

一見『“アホ”は“バカ”に内包されてんじゃないか』とも取れるが、自分自身としては“アホ”は、『意図的に愚かなさまを演じる事』と定義している。つまり、自分がやる事が愚かである事を分かってやるのが“アホ”で、それが愚かな事であるのも知らずにやるのが“バカ”。坂田利夫が、街中で「バカ」の意味合いで「アホ」と言われたら怒るのも、たぶんこういう理由だろう。

自分が後者を表現する際にも“アホ”を用いる事があるが、語感が良いという理由なだけで、自分の中ではこういった、キッチリとした線引きがある。

“アホ”は自分や他人を楽しませる事ができるが、“バカ”は大抵の場合、不快でしかない。
だから、ヘキサゴンなどで注目された“おバカタレント”という呼称は、あながち間違ってないと言える。「こいつら、何でこんなに物事知らんねん!!」と、見てて普通に思うし、こんな事も知らないなら、あんな時もこう思ってるのか、あの時もあんな感じなのか・・・と、連想ゲームがどんどん盛り上がって、最終的に「こいつ、嫌!」になってしまう。

・・・こんな、端から見てどうでもいいような事を、これだけの文章を使って表現しようとしている自分が“アホ”であると他人には写っていて欲しい。