「おあずけ」の指針

TVタックル』を見ていたら、三宅久之氏が

「子供に決定権を与えすぎている。詰め込み教育のどこが悪いんだ。」

と発言していたが、これには個人的にかなり同意。
そもそも、教師側が結果的に子供側に屈せざるを得ないという今の状況は「教育」とは呼べない。
いくら子供が悪態ついても教師は手すら上げる事ができない。手を上げたら親が訴えてくる。
子供にとっては、親が自分の味方なのは当然で、教師すら自分の味方で無ければそっぽ向いてしまう。
意図的でないにしろ、そういった環境が自分の周りに形成されていると何となくでも認識できた子供は、
欲求や疑問を解消する事に歯止めも利かさず、それでいてそれを内密にする術は妙に身につけている。

こうなってしまっては、成長して否が応でも規制に縛られた世界に入った時の反発は半端ではない。
本人は「反抗」程度のつもりでも、社会では「犯罪者」と見なす行動を起こす人間も増えるかもしれない。

未熟ながらも自意識がある小学生・中学生には大人の監視下による「おあずけ」の指針が必要では。
ネットも、携帯も、ゲームも全ておあずけ。そういった監視下で大人が制限をもってさせてあげる。
全ての決定権は大人の判断に基づき、個人的趣味の範囲内に限って、子供に自己決定権を持たせる。
それ位で丁度いい。自分で立って歩けるようになっただけで「自立したな」と判断するのは早すぎる。
一人だけである程度考えて歩けるだけで、他人と共存した時の歩き方は教わっていない状態である。

親が「子供が可哀相じゃないか」という単語を発するのは、昔はよほどの事で無いと使わなかったはず。
自分の子が思い通りに歩けなかっただけでそんな不満を学校側に訴えるのは、単純に親がバカすぎる。
自分の子の歩き方の美的さ如何は、親の教育方針の範疇であり、学校に求めるレベルの話ではない。
学校は「基本的・一般的な歩き方」を教える場所であり、そこから発展させるのは子供の仕事である。
その発展した部分まで大人が演出して「させてあげる」ものではないし、それでは実質発展できない。

小学校・中学校は『がんじがらめ』の生活で十分、というよりそれで丁度いいと思う。
ただでさえ歯止めが効かないのに、それをなお崇拝してどうするんだろうか。