“救済的安定”の怖さ

忘年会(自分たちの歓迎会も兼ねる)に加え、年明けには社員旅行があるらしい。
こういうイベントに参加できるという事が、本当に幸せだ。正直「とりあえず職があれば」感覚で、
待遇は二の次(多少は基準を設けてはいたが)だったので、前職の待遇にプラスアルファ付きまくり。
この現状は未だに涙が出そうになる。こりゃあ頑張って仕事しないとバチが当たる。

あのまま就職が決まらなかったら、今頃1000%実家に帰り、サイトも確実に閉鎖に追い込まれていた。
親にどんな顔したらいいのかも分からない。最初のうちは当然必死になって活動を続けるだろうが、
ある日湧き出た「もういいや」の理論が、一時的なものから段々凝固し始めて、最終的には固定概念に。
そうなれば抜け出すの大変。現状はあくまで“救済的”な安定なのに、次第に“救済”の意識も無くなり、
“救済的安定”が“必然的安定”だと錯覚を起こし始める。焦燥感は益々消えていく。これで図式完成。
あとはそれが“救済的安定”と気づいて自分から脱却する意欲を再び持つか、親の死などによって
“救済的安定”がそれこそ逆に“必然的破綻”を起こし、これまでツケてきた責任の清算に迫られるか。
事例は多くあるというが、世間的に考えればそんな立場に立たされるのは情けないし、本当に嫌だ。
親が実質母のみなので、本来は自分が母より働いて母の負担を少しずつ軽くしなければならない立場。
そもそも「今日から実家で暮らすわ」みたいな事を、軽々しく言えるような環境ではなかったのだ。

今になって色々整理して考えれば、ものすごい賭けを試みてたんだなと少し怖く思える。
たまたま成功したから良かったものの、失敗の可能性も十分あった。もうやめよう。こんな博打。