支配人と来園者

テレビのインタビューで「ていうかぁ?」というで喋る高校生を見た。
女子高生があからさまにこんな口調で話すようになったのは、おそらく自分が中学の頃あたり。
当事者たちはそれに一体どんな心地よさを見出し、そんな口調で喋るのか。まるで分からない。
にしては、妙にロングヒットな繕い。ということは、誰かの芸能人のマネとか言う訳でもないのだろう。
物事の分別が自分で出来るようになって、何でも自分の意見を正論と主張する事が心地よいのか?

仮にそうならば、それを真っ向から否定する義務は、世間ではなく親にある。それを放置してしまうと、
「もう俺は大丈夫」と益々確信して、欲望にも間違った理論をそのまま応用して、最終的に罪を犯す。
存在的に世間に成人と認められてしまえば、常識・共存という面における間違いは決して許されない。
学生内ならば、常識や共存への理解度を直接的もしくは間接的にでも主張できただけで賛美されるが、
成人と認められた内では「うん。」で終わる。常識・共存に対する理解度は実績として記録されない。
「常識・共存が理解できた=世間を理解できた」ではない。常識・共存を基盤として成り立つのが世間。
「常識・共存を理解している事を前提として」の扱いの上で存在するのが「世間」である。

自分の子供が「ていうか、▲▲って○○っしょ。」と、物事を自分の理論のみで解こうとし始めたら、
自分を成人として認めろという意思表示。この時点で子供は親に勝ったと思っているのかもしれないが、
実際は「力をセーブした親」に勝っただけ。実際に成人である親の行動範囲内に設けられた、
いわゆる“アトラクション”をクリアしたに過ぎない。その結果に酔った上での粋がりを見せるのなら、
親も本領発揮である。「じゃあ、これはできるね? これもできるよね?」と、水門を一気に解き放つ。
最近の流行など知っててもまるで役に立たない題目を次々と突きつければ、最初はすぐに音を上げる。
音を上げれば親は再び水門を閉じて、題目をクリアする為の新たなアトラクションを造り上げてやって、
それをクリアできるまで再び力をセーブ。親は死ぬまで子供にアトラクションを造ってやる義務がある。
言い換えると、アトラクションを造れるだけの最低限の余裕と知識がないと親にはなれないだろう。

子供も大変だろうが、親も大変。でも、「そんなに大変なら親なんかならなくていいや」はワガママ。