大日本意味なし教

昨日の記事のように「意味の無い事を楽しむ意欲」は、誰にでもあるんじゃないだろうか。
このブログに置き換えると、載せられた内容をありのまま感じるのではなく、内容から勝手に想像をいろいろ膨らませた上で生まれた物を楽しむ。それが狙いであり、目標でもある。このブログを定期的に読んでいる人は、それが出来るような人だと自分は信じたい。

何でも「そんなんやって何の得があるの?」という物差しで測るような考え方は、仕事には必要かもしれないが、生きていく事に対してまでそれを当てはめる事は、自分にはまず出来ない。それが出来る人は尊敬するが、可哀想だとも思う。(自分の伯母なんかがまさにそんな感じの生き方をしていて、その内そんな走り方に疲れて一気にガタが来るんじゃないかと心配する事がある。)

そういう考え方になったのは、子供の頃に父と一緒に見た「オレたちひょうきん族」が明らかに影響している。特に“タケチャンマン”でのビートたけし明石家さんまの対決が大きい。毎回テーマは違うが、高台に設けられた足場から、数十メートル先の足場に向かってロープで綱渡りしたりとか、深さ数メートルの水の底にあるものを魚の着ぐるみを着て取りに行ったりだとか、大人が冷めた目で見れば「なんでそんな事やらんとアカンの?」と思うような事なのだが、子供目線からすればそういうバカみたいな事が普通に面白かった。

意味の無いことをしてるのを他人に見られると、異質だと思われる。それを受けて、刀を引っ込めて他人と同調するのか、他人の事などお構いなしに、恥じることなく我が道を行くのか。自分はたぶん、後者の生き方なのだと思う。でないと、「キャピ子」みたいな異質なテキスト企画を100回以上も続けられる訳がない。

「キャピ子」開始当時、他のサイトで模倣されるような時期があった(自分から『やってみて下さい』と促した)のだが、あれは自分がある意味頭がおかしいからあれだけ長期間続けようと思ったのであって、普通の人ならば数回程度で「何で俺こんな事やってんだろう・・・」となって、持たなくなるのが当然じゃないかと思う。

でも、何でも「バカな事してるな・・・。自分は大人だから意味分からない。」で終わらせて、本当にいいのだろうか?
敢えて自分もバカやってみて(他人に迷惑掛けない程度に)、損得感情抜きにして、純粋にバカを楽しむ。うまくやれば、一番金の掛からない時間の潰し方にもなりえると思うのだが。